佃煮(つくだに)
NO.22
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」と佃煮
「麒麟がくる」は、2月7日(日)に最終回「本能寺の変」で幕を閉じました。天下人とされた織田信長を討った明智光秀が、馬上の将軍となっていずことへもなく去っていくシーンが視聴者の脳裏に焼き付きました。古来から中国では、麒麟は架空の神聖な動物であり、幼少から秀でた才知を発揮する若者を麒麟児と呼んできました。
筆者が小学生のころに夢中になって読んだ戦国時代の物語では、英雄は信長と秀吉であり、光秀は謀反人として描かれていました。しかし大河ドラマではおだやかで思慮深き知将として描かれており、筆者はすっかり光秀ひいきになっていました。その後の光秀は生き延びて、後に徳川家康の知恵袋として貢献したという史実も残っています。
佃煮を生んだのは「本能寺の変」だった
さて「本能寺の変」が起きた天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都の本能寺に滞在中の信長は、家臣・光秀に襲撃され、寺に火を放ち自害して果てました。信長はその直前の5月15日に、今の滋賀県近江八幡市にあった安土城に、今の愛知県岡崎市の岡崎城の城主・徳川家康を招待してもてなし、その接待役に光秀を指名しました。家康を味方につける重要な接待であり、その重役を光秀に託したのですが、何が不満だったのか信長は途中で光秀を接待役という大任を解任しました。そのときの理不尽とも思えるシーンが家康の眼前で展開されたことが、大河ドラマでも描かれていました。
そのときの信長の横暴な振る舞いが光秀の怒りを買い、本能寺の変につながったとも受け止められますが、光秀の怒りの心情を見ていた家康は信長が討たれたと聞いて、光秀は家康襲撃も目指すと考えたかも知れません。そのとき家康は、信長の計らいもあって京都から大阪方面をのんきに旅をしており、本能寺の変のときは大阪の堺にいました。
光秀は家康を討つに来るかもしれない。10人ほどの家来を引き連れただけの家康はうろたえ、急きょ居城の愛知県の岡崎城に帰ることを決心しました。堺をあわただしく出発し急ぎ足で岡崎に向かいますが、途中で大阪の神崎川に差しかかります。ところがこの川を渡るには舟もない。
困り果てていると、地元の摂津国佃村(大阪市西淀川区佃)の庄屋・森孫右衛門が、配下の漁民総出で舟を出し、家康一行の帰郷を助けました。ちょうど昼飯時になったとき、地元の漁師らが作って食べていた小魚煮を出してもてなします。これがいまでも私たちが食べている佃煮の起源につながりました。本能寺の変がなければ佃煮は生まれなかったのです。
家康は忘れなかった神崎川の渡しの縁
岡崎城に戻った家康は、その後波乱の戦国時代を制して天下を統一し、江戸に徳川幕府を開府します。本能寺の変から19年後のことでした。
家康は天下人になってからも、おりおりに神崎川を渡ったことを忘れませんでした。一時は大軍勢を引き連れた光秀に討たれることを予想し、京都の寺にこもって自害することも考えていたことが史実として残されています。
その運命を切り開いたのが神崎川の渡りであり、そのとき食べた小魚煮を思い出していました。あのもてなしをした漁師を江戸に呼び寄せて同じものを作らせよう。こうして大阪の佃村の漁師たちは、家康の下命で江戸へ集団移住してきました。
江戸に来た漁師たちは、隅田川河口近くの干潟を埋め立てた島に住居を構え、漁をしながら小魚煮を作っては家康に献上していました。埋め立てでできた島なので名前もない。大阪の佃村からの移住者たちは故郷の地名を懐かしんで佃島と名付け、そこで作っていた小魚煮をいつしか佃煮と呼ぶようになりました。佃煮は元々、大阪の佃村が発祥だったのです。
佃煮は、当時、高級調味料だった醤油と砂糖で味付けしたので高級料理の一つでした。将軍の好みと知って、江戸に詰めている各藩の大名たちにも話題となり、参勤交代で帰郷するときには江戸のお土産となり、やがて全国に知られるようになっていきました。
全国に広がった珍味の佃煮
元々は江戸前の小魚類を煮て味付けしたものですが、全国に広がるにしたがってその土地の海産物を材料にする佃煮へと発展し、その土地の名産として今につながる佃煮になりました。
材料は誰もが知っている小魚類から昆布まで広範囲になりコウナゴ、ハゼ、アサリなどもあります。日本人得意のコクとうまみを出すための創意工夫が全国で展開され、魚だけでなく肉類から根菜などへと広がっていきます。ご飯にとても合うのも佃煮が発展したもとになっています。
佃煮と似たものにしぐれ煮、甘露煮があります。しぐれ煮は、千切りのショウガを加えたもののようで、ハマグリのしぐれ煮が有名です。三重県の桑名でとれたハマグリのしぐれ煮を家康に献上したという記録もあるので、こちらは「家康煮」と言いたいくらいの珍味です。
文:ばばれんせい 絵:みねしまともこ
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