カズノコ
NO.43
江戸時代からお正月料理に
筆者が育った仙台では、ニシンのことを「カド」と呼んでいました。カズノコの語源は「カドの子」からきたと教えられています。カズノコは、ニシンとともに日本人の食生活には欠かすことのできない食材でした。漁獲されたニシンは、肥料になる「粕」と「身欠けニシン」とを作る作業班に分かれ、寝る間も惜しんで働いたということです。
カズノコは抜き取られ、頭部と臓物は大きな鍋で似た後に油を取り出し、残りを乾燥させて肥料にしました。身の部分は、乾燥させて保存食として売りに出し、江戸時代には米と交換できた貴重な食料であったため、松前藩の重要な財源になっていました。身欠きニシンは江戸ではあまり食べられなかったそうで、むしと京都地方で珍重されたようです。いまでも京都に行くと身欠きニシンそばを出し物にしているお蕎麦屋さんもあります。
さてカズノコといえば、お正月料理には欠かせません。徳川幕府、第8代将軍吉宗公が、カズノコのようにたくさんの子を持つようにと多産の縁起をかついで新年のお膳に出させたということから始まったようです。「数の子」という当て字もその縁起をかついだものでしょうか。
昔のカズノコは石のように硬いものでした。これは塩を含ませて乾燥させているためで、食べるときには塩抜きをしなければなりません。少々塩を入れた水にカズノコをひたします。大体2時間ごとに食塩水を作って取り替えていきます。そのとき、水をときどき口に含んで塩加減を見るのが大事だそうで、塩分を抜き過ぎないようにするのがコツと言うことです。
四六時中見張って大群を発見
ニシン漁がにぎわったのは、北海道の日本海側であり戦前は網元がニシン漁で儲けた財力で建てた豪勢な建物が「ニシン御殿」として残っています。昔、見学に行った「銀鱗荘」は、代表的な漁場建築で、御殿の屋根の上にひときわ高く突き出た部屋がありました。
この部屋で泊りがけで海を見張り、産卵のために集まってくるニシンの大群をいち早く発見したということでした。見張り役が遠く海面の動きを見て、ニシンの到来を知り、すぐに舟を出してニシンの捕獲に入ったのです。ニシンの大群は海面を盛り上げ、オスの出す白子で海は灰色に変色し、群れの中に竿を立てても倒れなかったと言われています。カズノコは、このニシンの子であり、海岸にはおびただしいカズノコが打ち上げられていたということでした。
悪玉を減らし善玉を増やす
カズノコの醍醐味は、なんと言ってもあの歯ごたえ、歯ざわりにあります。カリカリという歯ざわりと耳に響くポリポリも食感を楽しむもののひとつになっています。カズノコは、たんぱく質とビタミンEなどを豊富に含み、DHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)も多く含まれています。
DHAは、脳細胞同士が信号伝達をする機能でもあるシナプスという部分に多く含まれていることから、脳内の情報を素早く処理する際に働いているのではないかといわれています。だからDHAは頭の回転をよくする物質などとも言われています。
EPAは血液を固まりにくくする抗血栓作用があるといわれ、血液をさらさらにする物質として人気が高まっています。魚卵はコレステロールが高いから健康にあまりよくないといわれていますが、カズノコにはコレステロールが高くなったときに悪玉コレステロールを減らし、善玉コレステロールを増やすEPAを含んでいるので、それほど気にしないで食べられると言われています。
親よりも存在感があった黄色いダイヤ
日本列島沿岸のニシンは1970年ころから漁獲量が激減し、カズノコも貴重な食材となっていきました。お正月になっても高価で手に入らなくなり、「黄色いダイヤ」などと言われた時代もありました。
そのころからカナダ、アラスカ沿岸、ヨーロッパのニシンとカズノコが輸入されるようになりました。向こうではカズノコは食べないのでしょう。太平洋産のカズノコはパリパリ、ポリポリの歯ざわりで粘着性が高く、大西洋・北欧のカズノコはサクサクで柔らかい歯ざわりのようです。
食の広がりと多様性の時代を迎えてカズノコは、かつてのような高価な食べ物ではなくなりましたが、日本の食文化に根付いた海の幸でしょう。生みの親のニシンよりも子のカズノコの方がもてはやされた特異な食物なのです。
文:ばばれんせい 絵:とよだゆき
かずのこの食品成分
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