インゲン
NO.106
たび重なる日本渡来の要請
インゲンの名前のいわれは、この豆を中国から持ってきた隠元和尚(いんげんおしょう)にちなんだものでした。子供の頃から、この話を聞いていました。今回、いろいろと調べにみると、次のようなことが分かってきました。
時代は中国・明政権のころです。日本では徳川幕府第4代将軍・家綱の時代でした。
長崎の禅宗・興福寺の僧侶たちは、日本での禅宗が年々衰退してきていることを危惧していました。
そこで中国の高名な禅師である隠元を日本に招聘し、日本での布教を希望してたびたび中国に隠元の渡来を要請していました。隠元禅師は、度重なる懇願に心を動かされ、日本への渡来を決心しました。このとき63歳になっていました。
1654年、隠元禅師は30人の弟子と絵師、仏師らを引き連れて長崎に渡来してきました。当時日本は鎖国政策をとっており、長崎の港だけが外国船を受け入れる場所でした。
長崎に着いた隠元禅師は、唐僧たちや長崎奉行らの大歓迎を受け、興福寺に落ち着きました。隠元禅師はそこで、連日大勢の聴衆に禅学の思想を伝えたということです。
隠元禅師の講話を聞きたくて全国から興福寺に信者が集まってきました。いまでも興福寺の山門には隠元禅師が残した「初登宝地」、「東明山」という額が残されています。
仏教史に残る隠元禅師の日中間の取り合い
隠元禅師の渡来から3年目になると、今度は中国から早く帰国してほしいという要請が多数寄せられました。隠元禅師は、中国に残してきた弟子たちに3年後には帰国すると約束していたと伝えられていますしかし日本にいる隠元禅師の信奉者たちは、日本にとどまることを強く希望し、江戸の幕府にも働きかけたと言われています。隠元禅師を日中間で取り合うような感じです。
万治元年(1658年)、隠元禅師は江戸へおもむき、将軍家綱に拝謁しました。将軍も隠元禅師の日本滞在を希望したのでしょう。宇治に土地を与え新しい寺を建てることになったのです。
この寺は隠元禅師の故郷の福州の寺である黄檗山萬福寺と同じ様式で建立され、寺の名前も同じ萬福寺となったのです。
隠元禅師の渡来で日本に持ちこまれたインゲンには、このように日本の歴史と仏教史を思い出させるエピソードが多数残されています。
原産は中南米から世界に広がる
インゲンの原産地は、中南米とされています。これがコロンブスの新大陸の発見によってヨーロッパへ伝えられました。そのインゲンはやがて中国へも広がっていったのです。
日本へ伝来した当初はインゲンのさやの中の豆だけを食べていたそうですが、いつしか若いさやも食べるようになり、サヤインゲンを食べる文化が広がりました。
インゲンの資料を調べてみると、隠元禅師が日本に持ってきたのはインゲンではなくフジマメ(藤豆)だったとの説もあるようです。藤豆はいま写真で見るとサヤエンドウに似た熱帯性のマメで、天ぷらや汁物にして食べるようです。
サヤインゲンは栄養満点
サヤインゲンは、一年に3回も収穫できるので、地方によってはサンド(三度)豆とも呼んでいるそうです。熟成したインゲン豆は乾燥させて貯蔵し、煮豆や甘納豆やお菓子の餡の材料になっています。
ヨーロッパでは白インゲン豆は煮込み料理によく使われ、ラテンアメリカなどでも様々な料理の材料となっています。
食物繊維が多く、βカロチン、ビタミンB群を豊富に含む緑黄色野菜です。ミネラル分も含まれているうえ、タンパク質には、必須アミノ酸であるリジン、アスパラギン酸が多く含まれる栄養満点の野菜なのです。
南の島のインゲンは美味しかった
鹿児島県の最南端の離島である与論島に行ったことがありました。学校給食の学校栄養士の先生方との勉強会を兼ねたセミナーに参加したものですが、帰りに地元の農家の軒先でインゲンを買ってきました。
帰宅して早速茹でてみました。カツオ節と醤油をふりかけて食べてみると、はんなりと甘味があっておいしい。インゲンにまつわる資料類を読みながら、知らず知らずのうちにどんぶりいっぱいのインゲンを食べてしまいました。
インゲンが多く持っているビタミンB1は、神経を安定させイライラを防止する効果があるようです。またビタミンB2は、脂肪の代謝を助け、肥満を防止しコレステロール値の低下に効果が期待できるそうです。南の島のインゲンを食べながら思わぬ効能も知ったのでした。
文:ばばれんせい 絵:すなみゆか
都道府県 | 収穫量 | 割合% |
北海道 | 8,090t | 94.8 |
地域の入れ物 |
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