ダイエット指導を受けた栄養教諭に深紅の大優勝旗・世良光さんの体験記
深紅の大優勝旗を手にした栄養教諭の半生記を
特集することになったきっかけ
第17回全国学校給食甲子園大会で優勝した兵庫県宍粟市山崎学校給食センター栄養教諭、世良光先生から、学校栄養士になったいきさつや日ごろの食育活動などを聞く機会がありました。
驚いたことに給食甲子園に応募したきっかけは、ダイエット挑戦にかけて成功した勢いを甲子園大会で発揮してみようという気持ちからでした。
いつしか肥満体になってしまった自身の姿を写真で見て、これではいけないとダイエットに取り組み、なんと1年間で14キロの減量に成功したというのです。そしてその努力の成果をひっさげ、応募者の一人として初応募でしたが決勝戦まで進出し、あろうことか優勝旗までもぎ取っていきました。
表彰式後そこに至るこれまでの半生記をお聞きし、ドラマチックな内容に感銘を受け、それを書いていただきました。率直な内容を読んで感動しました。
そこで多くの皆さんともこの感動を分かち合いたいと思い、世良先生のご了解をいただき特別掲載することにしました。
認定NPO法人21世紀構想研究会理事長
馬場錬成
ダイエット指導を受けながら
第17回甲子園大会に
優勝するまでの体験記
兵庫県宍粟市立山崎学校給食センター栄養教諭 世良光
学校給食の献立では、栄養バランスと子どもの成長・健康をひと時も忘れずに取り組んできました。ところが自分の食事管理は、お義母さんにお任せのまま塩分・カロリー過多の食事を続けて肥満になり、栄養士からダイエット指導を受ける立場になっていました。必死に取り組んだこの一年で14キロの減量に成功し、そして全国学校給食甲子園大会で優勝旗を受け取る栄誉をいただきました。片田舎で数奇な体験をして栄冠を勝ち取った50歳の栄養教諭の半生を語ってみたいと思います。
栄養士をめざした学生時代
なぜ、栄養士をめざしたのか。その動機と勉強に取り組んだころのエピソードなどを語ります。
私は宍粟市北部で生まれました。子どもの頃は偏食がひどく、また病弱で、風邪をこじらせることがよくありました。友だちが多い方でもなく、家にいて静かに過ごすことが多かったように思います。そんな私の手に合った仕事をあたえ、台所の手伝いをさせてくれたのが料理上手な祖母でした。
寒の入りには地元のこうじ屋さんにこうじを買いに行って、おくどさんで豆をゆでて、たくさんの味噌を作りました。
こたつの中に大きなカメを入れて甘酒を作った思い出があり、そういった季節の手仕事が食を仕事とする私の原点となる体験でした。
小学生の頃は、保育士だった母が保育所給食の真似をして作ってくれるおやつが楽しみでした。甘さひかえめフレンチトースト、あるいはパリパリの餃子の皮で包まれたチーズパイなどでした。
大雑把でせっかちな母は、食事も時間のかかるものは作らず、ちゃちゃっと素早くおいしいものを作ってくれたように思います。味付けは保育所の給食を参考にしているとよく言っていました。時々祖父は、味が薄いことについて「あまい」と不満を言っていましたが、祖父は母の実父だったからかあまり気にとめず、子ども優先にしてくれたように思います。
母の愛読書を読むことから料理と栄養に目覚める
そのうち母が、女子栄養大学が刊行している月刊誌「栄養と料理」を買って帰るようになりました。やがて、私がそれを楽しみにして夢中になって読むようになりました。思えば、栄養士という仕事があることを知ったのは「栄養と料理」を読んでからだったように思います。
母は、同僚の栄養士の先生が読まれているのを見ていいなぁと思い買っていたようです。小学生の私は「レシピを読む」ことを楽しいなぁと思うようになりました。
そのうち自分の学校にも栄養職員のM先生がおられることを知りました。当時、毎週1回、三色の栄養黒板で、給食に使われている材料のことを教えてもらっていました。そのM先生とは、20年後同じ職場で働くこととなりました。
給食だよりに「鶏肉のレモン漬け」のレシピが書いてあったことを憶えています。大好きな鶏肉のレモン漬けでしたが、宍粟市北部の我が家では「レモン」なんて洒落たものには無縁でした。残念ながらこのレシピを作ることをあきらめましたが、家でも作れるレシピが存在することだけで感動し、そのレシピを長い間机の中に持っていたのを憶えています。
中学生になった私は、オーブンが欲しいと思うようになりました。当時、オーブンは、レシピに「天火」と書かれていました。何としても自分の手で、ふんわりとしたスポンジケーキ、チーズの焦げ目のついたグラタンを作ってみたかったのです。
考えた私は、「定期テストで○○点以上取ったらオーブンを買って!」と祖母に交渉しました。交渉もテスト勉強も頑張って結果を出した私は祖父母に連れられ、喜々として農協にオーブンを買いに行ったことを憶えています。憧れて買ってもらったオーブンは、祖母が亡くなり、私が結婚し実家を出るようになっても、働いてくれました。
思い返すと、食を大切にする家族に囲まれて育った私は、食べるものを作るということに興味をもち、また「栄養のことを考えて作る」ことに関心をもつようになりました。
学校栄養士になったきっかけ
地元の普通高校に進学した私は、家庭科の授業の楽しさを知りました。毎週の家庭科の授業でS先生がご自身の子育て体験などを交えて生き生きと話をしてくださることを心待ちにするようになりました。
あるとき家庭科の食物の宿題で、ちょっとした感想を書くことがありました。「S先生に教えていただいたことを母に話しました」と書いたところ「ありがとう」という先生からのコメントがありました。S先生はその後決して目立つ存在ではなかった私に、「髪の毛切ったんだね」「テストがんばっていたね」など、担任でもないのによく話しかけてくださいました。
私はその先生の授業が楽しかったから、家族にもその話をして、真面目に宿題をしただけだったのですが、こまめに声をかけて褒めてくださったことが本当に嬉しかったのです。
大学受験では、興味のあった国文科を志望することも考えましたが、父が「これからは男も女も仕事をする時代だ。そしてどんな仕事をしても家庭を大切にする人になってほしいから、家政学を学ぶのもいいのではないか」とアドバイスをしてくれました。
悩んだ末、私は父の助言を活かし、島根県の大学の家政科を選択しました。その大学では、島根県独特の学びがありました。調理実習ではすずき、もろげえび、うなぎ、あまさぎ、しらうお、こい、しじみ、(頭文字をとって「すもうあしこし」といいます)いわゆる「宍道湖七珍」を取り入れた献立にも取り組みました。
要領の悪い私は調理実習や実験では先生に厳しく叱られ、指導されることがありました。しかし、今思えば先生方が厳しかったおかげで、クラスやグループで、もやもやした気持ちを抱えることは少なく、叱られた後慰め合うことで友情が深まり、結束力が強くなった気がします。卒業後は、病院の栄養士や食品メーカー勤務をめざす人が多かったように思います。しかし全員が希望通りというわけではなく、福祉施設の栄養士になる人もいました。
特養ホームの勤務からあこがれの学校栄養士へ
私もそのうちの一人で故郷の特別養護老人ホームで2年間勤務をしました。そこでは、朝昼晩の三食とおやつの給食管理をしていました。利用者さんに人気があったのがカレーライスやちらし寿司でした。私が調理補助に入っている姿がなんとも頼りなかったのか、利用者さんたちが「お手伝いえらいね」と声をかけてくださることもありました。
そんな日常の中で地域の会合で一緒になる学校栄養職員の先生方のパワフルな姿にあこがれの気持ちを抱くようになりました。小学生の時にお世話になったM先生がまだ現役で働いておられ、「がんばってね」と声をかけてくださったことや、その後、他の栄養職員の先生方にも職場の垣根を越えて、本当によくしてくださったことが印象に残っています。
その後、学校栄養職員の産育休代替で勤務をしながら、採用試験を受けることにしました。福祉施設では給食は日常生活の一部でしかなかったのですが、学校給食センターでは全員が昼一回の給食のために力を合わせます。多くの人の手を伝わって膨大な量の食材が集まり、多くの人の手によっておいしい給食が作られていく。大切に運ばれて子どもたちがほおばって笑顔を見せてくれる。そんな姿に励まされ、三回目の挑戦を経て無事合格しました。
結婚・育児・仕事の中での食事管理は義母まかせ
私は25歳で結婚をしました。中学校教諭の夫は「おいしいもの」が好きで、評判のお店をとてもよく知っていました。そして、中学校勤務で運動部の部活動顧問をしているにもかかわらず、当時から軽度の肥満でした。
結婚3年後から夫の母親、夫の祖母との同居が始まりました。同居が始まったころすでに2人の子どもが誕生しており、その後3人目を妊娠出産し、私の仕事と育児の両立を助けるため、優しい義母が平日の夕食作りを引き受けてくれました。
夫婦二人が仕事で遅い日は、夫の祖母、3人の子どもたちの世話をしながら夕食を作り、家に灯を付けて待っていてくれました。疲れて帰宅した日の義母の手料理には、本当に助けられました。私が帰宅すると、三人の子どもたちが飛びついてきて、「お母さんおかえり。ごはんいただこう、いただこう」と騒ぎます。
笑顔で迎えてくれるそんな幸せを絵に描いたような日々を送りました。ただ、ただ、義母の作る食事は味が濃く、しかもどう考えても量が多い。何度か量の事をやんわりとお願いしてみたことがあるのですが、「じゃ、残したらええやん」と笑顔で返してきます。
濃い味付けが気になったが・・・
味付けの濃さについても一度だけ「健康に気をつけないといけないから…」とやんわり言うと「うちほど健康に気を使って食事を作っている家はない」との答えが返ってきました。
結局、夕食に作ってくれた味の濃いおかずを白いごはんとともにお腹いっぱいに食べて、それでも余って、翌朝またお腹いっぱいになるまで食べる…そんな毎日が続きました。
さすがに食べきれずに残していたら、「あれ、これ人気なかったね…」と義母が残念そうに言うので、朝出勤する前にはお皿を空っぽにするのが当たり前。それでも食べきれなくて、休日を前に冷蔵庫が余ったおかずでいっぱいということもよくありました。
義母は、来る日も来る日もこころを込めて、義母なりに考えて夕食を作ってくれました。作りたくない日も、疲れた日もあっただろうに、子どもたちや私に気を遣って、喜ぶものをたくさん作ってくれました。そのことを思うと本当に頭が下がりますが、とうとう体が悲鳴をあげる日が来ました。
自身の写真を見て肥満体に愕然とする
49歳の誕生月に受けた人間ドックでは、ついに保健指導を受ける必要性が指摘されました。体重は新任のときから15年で17㎏増です。血液検査の各種の数値結果も年々悪くなり、ついに「要健康相談」の判定が来ました。
このころ、次男の成人式のときに撮った我が身の写真を見て、さらに大きなショックを受けました。健康に生きる知恵を学び、示していく役割の栄養教諭が、お世辞にもスマートとは言えない姿で写っており愕然としました。
学校給食は食育の生きた教材と言われます。学校給食は教育だと信じ、子どもたちにとって望ましいものであるべきだと思って献立作成に取り組んできたつもりでした。そして、学校給食が家庭料理のモデルになったら嬉しいなと思ってやってきました。調理員さんが「この前のメニュー、家で作ったら家族にとても喜んでもらえました」と言ってくれると、こころの中でガッツポーズをしていました。しかし、実際の私は、その学校給食とはあまりにもかけ離れた食生活を送っていたのでした。
人間ドックの結果を受け、特定保健指導相談員の管理栄養士J先生が職場(所属校)まで来て指導してくださることになりましたが、それは、私にとっては職業柄大変恥ずかしいことです。そこで自分の職業を隠した上で、娘の高校の卒業式の日に年休を取り、2022年3月1日の夕方に自宅でリモートでのご指導を仰ぐ約束を取り付けました。
「じつは、私は栄養教諭です・・・」
当日パソコンの画面に映った自分の顔は、生まれ持ったおかめ顔、下がり眉に加え、締まりがなくたるんでおり、あごも頬も垂れ下がり何と言っても「でかい」のです。
このとき指導を担当してくださった管理栄養士のJ先生とは会話をするうちに、年齢がそんなに変わらないことが分かったのですが、顔の大きさと肌のつやが違いすぎるのが自分でもわかりました。
まず、普段の食事や間食について聞き取りをされ、普段いかに不健康な食生活をしていたのかを告白していく羽目になりました。
「朝はしっかり食べてらっしゃるということですよね。それから昼食は、学校の先生なので学校給食ですよね。子どもたちと同じぐらいの量ですか?体育の授業には、参加されていますか?昼休みは子どもたちと運動場で体を動かしていますか?」次々と質問を浴びて万事休すでした。
「すみません。黙っていましたが私は、栄養教諭です」
「えー!そうだったんですか!もっと早く言ってくださいよ…」
J先生は私の事を決して馬鹿にしたり、軽蔑したりせず残りわずかとなった指導時間で、的確なアドバイスをしてくださいました。
その内容は、朝はごはんをしっかり食べる、給食は小学2年生ぐらいの量をかみしめていただく、夜は油ものを避ける、おやつはなるべく食べない、土日だけでいいからラジオ体操をする、健康とダイエットのためのアプリを取得して記録する、といったものです。
その後、具体的にいつまでに何㎏になりたいかを決めて、その日の指導は終わりました。最後にJ先生は、「栄養士さんで体重が増えすぎて困っている人、他にもいますよ。でも、何を食べると太りやすいか、たくさん食べても太りにくいものが何か良く分かっておられるから話は早いです」と笑顔で励ましてくださいました。
ダイエットの苦闘の日々
年度が変わって、娘が進学のため家を離れるタイミングで、義母に夕食作りを卒業してもらうようお願いしました。それでも最初のころは、「何もせずにいるのは辛いから」と言われ、やはり夕食を作ってくれました。
そこで、「野菜のおかずだけでいいよ」とお願いすると、次の日には油の層ができた麻婆豆腐を「野菜のおかず」だと言って作ってくれています。その次の日は、マヨネーズの海でマカロニが泳いでいるサラダ。しかも大量。やはり味が濃いのです。そのうち、何日かするとやがて再びフルセットの夕食を作ってくれるようになっていきます。
何か良い方法がないかと悩んだのですが、色々なやりとりを経て、最終的には、「頼むから一切作らないでほしい」と言い渡すことで決着が着きました。この決断のことを思うと今でも胸が痛みますが…。嫁として義母の好意を拒絶した初めての出来事であったと思います。今思うとそのとき、一言「今までありがとうございました」とお礼を添えるべきだったと悔やまれます。
何より子育てと仕事の両立を助けてくれた義母が心を込めて作ってくれる温かい食事はありがたいものでした。それに義母の作る夕食だけが肥満の原因ではなく、午前・午後の間食で食べる甘いお菓子、味の濃いおかずを食べながらすすみがちだったビールがそれ以上の原因だったのではないかと思います。
この決断で家庭が何となく微妙な雰囲気になりましたが、それ以降いよいよ本格的なダイエットが始まりました。
最初のころ、大好きな甘いお菓子を我慢することが大変辛かったのですが、甘い物を砂糖でとらずにフルーツや干し芋でとることをこころがけました。そうすると毎日食べていた甘い物は、本当に食べたいからでなく、砂糖中毒に近い状態で食べていたことに気がつきました。
また、日常で素敵だなと思う人を観察し、諦めずに真似をしてみることにしました。例えば、自分の子どもと同年代で某ジャニーズグループメンバーの一人に似ている(と私は思っています)F先生が、1日2リットルの水を摂るよう努め、体型維持のために休日は、ジムで鍛えておられることや臨時収入があったときにはベンチプレスセットを注文しておられることにも触発されました。
また、某国民的女優似の40代のT先生が、普段からマイお茶を頻繁に飲んでおられるので聞いてみました。するとそのお茶は、番茶に乾燥させたショウガの薄切りを加えて煮出したオリジナルのお茶で、好物は甘いお菓子ではなく季節の果物とお魚でした。
周りの素敵な人を注意深く観察することで、自分が栄養学だけでなく行動学の面から改善すべき事がたくさんあったことに気づかされました。
私から中学を卒業する子どもたちへ3月に送るメッセージはいつも決まっています。それは以下のようなものです。
「卒業生の皆さん。給食の味を忘れないでね。みなさんが学校から離れて食べるとき、作るとき、選ぶとき、迷ったときは学校給食を思い出して、参考にしてくださいね。自分の健康は自分の手で守りましょう」
それなのに自分は、まったくもって実践できていませんでした。子どもたちへのメッセージは、自分には届いていなかったのです。給食の良さをよく分かっているはずの自分自身が、仕事以外で実践できず健康を害し、肥満体型になってしまっていました。
ダイエットを始めて、自分が食生活で徹底したことは、うす味でおいしく食べるために質の良い食材と調味料を使ってだしを丁寧にとること、おいしく食べるためのお塩とお砂糖、油は大切に使って少しで効果が出るよう工夫すること、デザートには季節の果物を楽しんで食べること、野菜を食べるとき加える油はなるべく減らすこと…などです。
これって普段、給食でしていることばかりなのです。
1年で14キロの減量に成功
素敵な人の行動の中でできることを真似して、食事・運動は栄養士のJ先生の指導を守りました。減塩、低脂肪を心がけていると味覚も変化し、GW明けには職場で「なんかやせてない?」と言われ始めました。そして夏には、信じられないことに11キロの減量を達成しました。
そんなときに、「全国学校給食甲子園」の出場募集を知りました。全国学校給食甲子園といえば、宍粟市の大先輩が決勝大会に出場したことがあるあの大変な大会です。毎年募集があって、兵庫県でも上位入賞したチームがあることは知っていましたが、自分には手の届かない憧れの世界だと思っていました。
そのころたまたま、学校給食甲子園の決勝大会へ出場した学校栄養士の講演を聞く機会があり、とても刺激を受けました。ダイエットで経験したようにこれも「素敵な人の真似をする」経験のひとつだなと思い、あまり気負わずに思い切って応募することにしました。
私は自分のもっているものをすべて出し切ろう!と思い、ベストを尽くしました。でも、まさか本当に私たちのメニューが書類審査を次々に通過し、決勝大会にまで進出し、その決勝大会で各地代表の強敵を破って優勝するなどとは夢にも思っていませんでした。それはまさに驚きの日々でした。
優勝して帰郷し、大反響で一躍有名人へ
このように、「がんばりついで」に、お盆休みに軽い気持ちで学校給食甲子園に応募した結果が、周りの人に助けられ支えられて、優勝することができました。ダイエットを経験し、「頑張ること」イコール「苦しいこと」ではなくなったのです。
ダイエットの結果、体重は適正となり、血液検査はすべての項目でAまたはB判定になりました。身のこなしも楽になり、毎日階段の上り下りだけで息切れしていたのが解消、膝の痛みもなくなりました。大会へのプレッシャーと緊張から一時は、ダイエット開始時の体重からマイナス14kgとなりましたが、大会が終わってから少し落ち着き、今は12kg減で落ち着きつつあります。
コロナ禍もあり、知人に出会う機会が少なくなっていたのですが、今回のメディア露出により「やせたね」と多くの方から声をかけられるようになりました。
また、市内で買い物をしていると、「給食の人ですよね」「おめでとうございます」などと声をかけられました。
適正な体重を維持することにより、体の健康に加え、こころも元気になり、何でもやってみようという意欲が出てきました。少しはおしゃれをしてみたいと思ったり、年齢を重ねる自分を少し大事にしようと思えたり…何より給食甲子園に出られたお陰で、素敵な出会いがたくさんたくさんありました。田舎の平凡なおばさんですが、この一年を振り返ると、多くのものが学べたと思います。
そんなに食べたくないものまで、なんとなく自分の体に入れてしんどいしんどいと思いながら日々を過ごすより、必要なものだけをしっかりと食べて健康な体になって、頑張った自分を認めながら笑って過ごせて良かったと今は感じています。
肥満を招いた本当のワケを分析
義母にだけは、申し訳ないことをしたと思いますが、私ももう50歳。痩せられないことを義母のせいにせず、残された人生を自分の手で幸せに歩きたいから、「自分の健康は自分の手で守りましょう」のメッセージを自分で守るために鬼になることを決めました。
思えば鬼になったことで相当な覚悟ができ、その覚悟がダイエットを成功させることにつながったと思います。周りが悪いのではなく、栄養学に加え行動学の面での変化がとても大事だということにも気づきました。やはり、「ノー」と言えない優柔不断な性格、伝えたいことを上手く伝えられない性格が肥満を招いたのだと考えています。そして今回は、それを変えたいと思ったのが成功のポイントとなりました。
最近は、一年前に特定保健指導相談員だった先生が、いまどうされているかと思うようになりました。そしてどうしても直接お礼を言いたいなと思いました。それは、私も一人の栄養士として、対象者が健康になった姿を見ることが大きな喜びになると確信できるからなのです。健康のための栄養指導、食事アドバイスは、健康だけではなく幸せな人生を送るためのアドバイスでもあるのです。そのためには指導する側が健康で幸せな空気を醸し出せるといいなと思うのです。
健康指導の性質上、個人的に連絡を取り合うことは難しいことから、相談員の先生とお話しすることは断念しましたが、何らかの形で私の姿をご覧いただいていることと想像します。そして同じ栄養士として私の活動をどこかでご覧いただくときに、恥ずかしくないように精進したいと思います。
自分の使命の覚悟と感謝
今後子どもたちが生涯にわたり健康に生きるため、学校給食は食育の生きた教材とならなければいけません。そのことを広く地域や関係者に発信し「こころ豊かな人づくり」に貢献することこそが私たちに与えられた使命であると感じています。
最後にこの仕事を続けるために家庭を陰で献身的に支えてくれた義母に改めて感謝の気持ちを記し、この体験記を締めくくりたいと思います。
終わり